Quantcast
Channel: HIGH-HOPES(洋楽ロック)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3215

33年前の1980年12月9日。~ジョン・レノン命日に想うこと

$
0
0

12月8日。ジョンが亡くなって33年。日本時間だと12月9日だった(時差でいくと日本時間は12月9日の午後14時頃だったのではないかと)。昔一回書いたことがあったけど、その時の想いを改めて書いてみます。

$HIGH-HOPES管理人のひとりごと(洋楽ロック)

もし「ある1年間だけなかったこととして消え去ることができるとしたら?」、きっと「1980年」と言うだろう。

当時僕は高校2年生。1月にポール・マッカートニーが成田で捕まり、9月にはツェッペリンのジョン・ボーナムが亡くなり、10月には長嶋監督が解任され、王は引退。。。そして1980年12月8日(日本時間は12月9日だった)・・・ジョン・レノンがNYのダコタハウスで射殺された。。。他にも個人的なことでもいろいろあり、僕にとっては、もう本当にひどい一年だった。

日本時間の12月9日、その日は高校の期末(中間だったかな?)テストが終了した日だった。「やっと終わった~」ということで、近くの友人達とちょうど11月下旬に買ったばかりのジョンの『ダブル・ファンタジー』をみんなで聴こうって話になって、当時下宿してた国分寺のおばあちゃんの家の2Fで聴いてたら、おばちゃんの呼ぶ声が。。。「テレビでジョンレノンが撃たれたっていってるわよ・・・」。

どたどたと階段を下りてTVを見ると(たしか”3時のあなた”だったと思う)、淡々とニュースとして紹介されてた。そのときは他の皆さんもそうだったと思うが、ぱっと聴いたときは「たぶん何かの間違いだろう」「もし撃たれてたとしても、まあきっと大丈夫だろう」と楽天的にいいほうに軽く考えていた。でも、注意深く聴き始めると、どうも射殺されたらしいという言葉がはっきり聞こえた。

階段をトボトボあがっていくと、今でもはっきり覚えてるけど、ちょうどショーンのことを歌った美しい「ビューティフル・ボーイ」が流れていたんだよなあ。。。友達はきっとあまりにも深刻な僕の顔を見て驚いたんだと思う。何も話しかけられなそうで、僕が「ジョンが死んだらしい」と伝えて、とっとと帰ってもらった。

それから、なぜか判らないんだけど、何かにとりつかれたかのように、ありとあらゆるTVのニュースを録音しはじめた。今から思うと、おかしな行動だったかもしれない。でも、きっとどこかで「間違いでした」と言ってもらうのを期待して、それを証拠で残しておきたいと思ってたのかもしれない。

TVでニュースというニュースをみたり、新聞買いまくって何が本当のことか知りたかったけど、ジョンに捧げるとか言って「イエスタディ」かけたりして、知ったかぶりの奴らが出てきてなに言ってんの?って感じのことばかりで、なにか怒りのようなものを感じていた。

その中で救いだったのはラジオ。NHK FMの「サウンドストリート」は素晴らしかった。何か同じ想いを共感できたというか。ちょうど12月9日は火曜日で火曜の22:00~は森永博志さんがDJで、スタジオではなく外からだったと思うけど、生でジョンの曲を次々とかけてた。「真夜中を突っ走れ」が妙に生々しかった 。そして12月11日木曜日は渋谷陽一さんのDJで、この時の渋谷さんが同じようなことを怒ってたのを凄く覚えてる。一曲目は「パワー・トゥ・ザ・ピープル」だったと思う。悲しみを抑えるように淡々と、でも静かな怒りを込めて、そのあとジョンの音楽をずっとかけていた。ラジオ関東の「全米トップ40」では湯川れい子さんがジョンのインタビューを流していた。

その当時は音楽をむさぼるように聴き始めた時代で、特にビートルズやジョンの世界にはかなりどっぷりはまっていたので、ある種その時は親よりも近い存在に感じていたのかもしれない。とにかく、まるで世界が終わってしまったかのように感じた記憶が残っている、いろんな思いがぐるぐると頭の中を回り、翌日はショックのあまり高校を休んでしまった。。。

その後たしかその年のクリスマスだったと思う。日本でも追悼集会が行なわれて、僕も参加した。日比谷野音でいろんな方がでてきて話をきいて、そこから銀座へ向けてキャンドル行進したと思うが(逆だったか?)、とにかく寒くて震えてたけど、しっかり追悼しなきゃって頑張った記憶が・・・。今から思うと、まるで自分の近親者がいなくなったかのように、そこまで思い込んでいたのは、不思議に思うところもあるんだが、まあ当時は本当に自分が純粋だったということかもしれない。そう思うとちょっとこっ恥ずかしい気もするが。。。

1980年12月9日のことは昨日のことのように今でも鮮明に覚えているから、あれからもう33年たってしまっているなんてちょっと信じられないけど、でも、なんといっても驚くのは、自分がジョンの年をとっくのとうに越えてしまってる事実である。ジョンは40歳で亡くなっている。その40年間にやってきた凄いことと、自分を比べるのは全くおこがましいし、しょうがないんだが、ジョンが亡くなった年齢を超えて、今自分の人生を振り返ってみると・・・「何にもやってないなあ」

ガックシである・・・。

この季節になるとジョン・レノンの歌が聞こえてくる、やたら「Happy Xmas」だけがクリスマスの定番!のように流し続けられ、みんなが「ジョンのLOVE & PEACEなところが好き」とかワケのわかんない感じで答えてるのを聴くと、非常に違和感を覚えてしまうが、当たり障りのないバラード(とはいいつつそうじゃないけど)とかをベストで聴くんじゃなくて、絶対ソロのアルバムを順番に一枚づつ聴くべきである。愛と平和の使者とか言われてるけど、そんな薄っぺらな口当たりのいい表面的なことではなく、ジョンの全く個人的な心の奥底からの真っ正直なへヴィーな「叫び」を受け入れられるかどうか?だと思う。

$HIGH-HOPES管理人のひとりごと(洋楽ロック)

『ジョンの魂』。あそこまで自分をさらけ出してしまっていいのだろうか?初めてこのアルバムを聴いたときの衝撃は忘れられない。これを聴くと、自分に重ねあわせる共感的なところは全くない。逆に絶対自分はジョンレノンにはなれないっていうことが決定的にわかる。でも、「自分はこのままじゃいけないんだ」ということ判らせてくれるような気がする。

今でも何か本当につらいことがあったりすると『ジョンの魂』を聴く。自分にとってのNo1のアルバムは何か?と聴かれたら、『ジョンの魂』と答える。それは一生変わらないだろう。

あれから33年。ポール・マッカートニーは71歳で日本に来てくれた。そのポールも33年前=38歳だったということである。1980年来てくれていたら脂の乗り切ったポールを見ることができたかと思うと悔しい・・・でももう一回来てくれて武道館で観ることができれば完結という気もする。ジョンのライヴは見ることはできないけど、1981年からワールドツアーをやる予定だったそうである。何かの本で見たら1981年3月から日本ツアーだったらしい(それも自分の誕生日あたりだったので余計悔しい)。タイムマシンがあったら、1980年に行って1月と12月を変えてしまいたい。そして1月ポールの武道館を見て、12月8日は何も起こらず、翌年ジョンのライヴを見る・・・現実には叶わぬ夢だけど、たまに今でも思ったりする。

1980年にどういうことがあったか?下記で見ることができるのでご参照。結構忘れてること多いけど、改めて見ると、太平首相は急死して、モスクワオリンピックをボイコットして、ルービックキューブが流行って、竹の子族に漫才ブーム。。。山口百恵が引退して、松田聖子がデビュー、流行った歌は「ランナウエイ」「ダンシング・オール・ナイト」「TOKIO」「大都会」・・・。

こんなこと、あんなことが1980年だったんだなあ?と驚くことも多いけど、この年に生まれてる皆さん。彼らはジョン・レノンが死んだことなんて、当然知らないんだろうなあ。。。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1980.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3215

Trending Articles