12月8日がまた来てしまった。ジョン・レノンの命日。今年で39回目、来年はジョン亡くなってから、彼が生きていた年数と同じだけの40年も経ってしまうわけです。12月8日、いや日本時間だと12月9日、あのニュースを聞いたその瞬間、自分はどこで何をやっていたのか?それぞれがそれぞれの場所を思い出すことでしょうね。前にも書いたことがありましたが、その時の想いを改めて書いてみます。
もし「ある1年間だけなかったこととして消え去ることができるとしたら?」、きっと「1980年」と答えます。
当時僕は高校2年生。1月にポール・マッカートニーが成田で捕まり、9月にはツェッペリンのジョン・ボーナムが亡くなり、10月には長嶋監督が解任され、王は引退。。。そして1980年12月8日(日本時間は12月9日)、ジョン・レノンがNYのダコタハウスで射殺されてしまった。。。他にも個人的なことでもいろいろあり、僕にとっては、もう本当にひどい一年でした。
日本時間の12月9日、その日は高校の期末(中間だったかな?)テストが終了した日でした。「やっと終わった~」ということで、近くの友人達とちょうど11月下旬に買ったばかりのジョンの『ダブル・ファンタジー』をみんなで聴こうって話になって、当時下宿してた国分寺のおばあちゃんの家の2階の部屋で聴いてたら、おばちゃんの呼ぶ声が。。。「テレビでジョン・レノンが撃たれたっていってるわよ・・・」。
どたどたと階段を下りてTVを見ると(たしか”3時のあなた”だったと思う)、淡々とニュースとして紹介されていた。そのときは他の皆さんもそうだったと思いますが、ぱっと聴いたときは「たぶん何かの間違いだろう」「もし撃たれてたとしても、まあきっと大丈夫だろう」と楽天的にいいほうに軽く考えていたんです。でも、注意深く聴き始めると、どうも射殺されたらしいという言葉がはっきり聞こえてきて・・・。
階段をトボトボあがっていくと、今でもはっきり覚えてるけど、ちょうどショーンのことを歌った美しい「ビューティフル・ボーイ」が流れていたんです。。。友達はきっとあまりにも深刻な僕の顔を見て驚いて、何も話しかけられなさそうな感じでした。僕が「ジョンが死んだらしい」と伝えて、そのまま帰ってもらいました。
それから、なぜだか判らないんだけど、何かにとりつかれたかのように、ありとあらゆるTVのニュースを録音しはじめて・・・今から思うと、おかしな行動だったかもしれないけど、でも、きっとどこかで「間違いでした」と言ってもらうのを期待して、それを証拠で残しておきたいと思ってたのかもしれない。
TVでニュースというニュースをみたり、新聞買いまくって何が本当のことか知りたかったけど、ジョンに捧げるとか言って「イエスタディ」かけたりして、知ったかぶりの奴らが出てきて何言ってんの?って感じのことばかりで、なにか怒りのようなものも感じていた。
その中で救いだったのはラジオでしたね。NHK FMの「サウンドストリート」は素晴らしかった。何か同じ想いを共感できたというか。ちょうど12月9日は火曜日で、火曜の22:00~は森永博志さんがDJ、スタジオではなく外からだったと思うけど、生でジョンの曲を次々とかけてくれました。「真夜中を突っ走れ」が妙に生々しかったことを思い出します。12月11日木曜日は渋谷陽一さんのDJ、この時の渋谷さんがさきほどのことと同じようなことを言って怒ってたのを凄く覚えています。1曲目は「アウト・オブ・ザ・ブルー」だった。悲しみを抑えるように淡々と、でも静かな怒りを込めて、そのあとジョンの音楽をずっとかけていた。ラジオ関東の「全米トップ40」では湯川れい子さんがジョンのインタビューを流してくれて、何か悲しみを分かち合うような感覚でした。
その当時は音楽をむさぼるように聴き始めた時代で、特にビートルズやジョンの世界にはかなりどっぷりはまっていたので、ある種その時は親よりも近い存在に感じていたのかもしれない。とにかく、まるで世界が終わってしまったかのように感じた記憶が残っています、いろんな思いがぐるぐると頭の中を回り、翌日はショックのあまり高校を休んでしまい・・・。
その後、たしかその年のクリスマスの頃だったと思いますが、日本でも追悼集会が行なわれて参加しました。日比谷野音でいろんな方の話をきいて、そこから銀座へ向けてキャンドル行進(逆だったかな?)、とにかく寒くて震える夜でした。今から思うと、まるで自分の近親者がいなくなったかのように、そこまで思い込んでいたのは、今から思うと不思議な感じもするけれど、当時は本当にぽっかりと心に穴が開いてしまったような感じでした。
1980年12月9日のことは昨日のことのように今でも鮮明に覚えています。、あれからもう39年も経ってしまっているなんてちょっと信じられないけれど、でも、なんといっても驚くのは、自分がジョンの年をとっくのとうに越えて、ジョンが生きていた40年と同じだけの40年が過ぎてしまってるということ。ジョンが亡くなるまでの40年間にやってきた凄いことと、自分を比べるのは全くおこがましいし、しょうがないことなんですが、ジョンが亡くなった年齢をはるかに超えて、今自分の人生を振り返ってみると・・・まだ、何にも成し遂げてない、ガックシです・・・。今ジョンが生きていたら79歳。果たしてどんな生き様を見せてくれたんだろう?なんて叶わぬ夢なんだけど。
ジョンの歌はベスト盤で聴くんじゃなくて、絶対ソロのアルバムを順番に一枚づつ聴いてほしいですね。
『ジョンの魂』。初めてこのアルバムを聴いたときの衝撃は忘れられません。あそこまで自分をさらけ出してしまっていいのだろうか?ってくらいのジョンの全く個人的な心の奥底からの真っ正直なへヴィーな「叫び」。これを聴くと、自分に重ねあわせるとか、共感的なところは全くないけれど、でも、「自分はこのままじゃいけないんだ」ということを判らせてくれるような気がするんです。
今でも何か本当につらいことがあったりすると『ジョンの魂』を聴きます。自分にとってのNo1のアルバムは何か?と聴かれたら、『ジョンの魂』と答える・・・それは一生変わらないと思います。
1981年からワールドツアーをやる予定で、それも1981年3月から日本ツアーを皮切りにだったらしい。タイムマシンがあったら、1980年に行って1月と12月を変えてしまいたい。そして1月ポールの武道館を見て、12月8日は何も起こらず、翌年ジョンのライヴを見る・・・現実には絶対に叶わぬ夢だけど、たまに今でも思ったりするんです。
1980年にどういうことがあったか?下記で見ることができるのでご参照。結構忘れてること多いけど、改めて見ると、太平首相は急死して、モスクワ・オリンピックをボイコットして、ルービックキューブが流行って、竹の子族に漫才ブーム。。。山口百恵が引退して、松田聖子がデビュー、流行った歌は「ランナウエイ」「ダンシング・オール・ナイト」「TOKIO」「大都会」・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
今回『Power To The Pop』や一連のbeatleDNAキャンペーンをやろうと思ったきっかけの一つは、ジョンが亡くなって40年も経ってしまうという事実と、その前に何か自分で爪痕残したいという想いも大きな動機付けになっていました。ジョンのおかげで、豊かな人生になったし、こうして今もこんな仕事をしているのも彼のおかげともいえるので、たいしたことじゃないですが、何か恩返しできればという気持ちも込めて。
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